2011年が始まった。
1961年に生れた俺にとって半世紀となるのだなぁーとふとコンテンツの更新で気が付いた。
思えば随分生きてるんだと感心もしたり、まだ生れてからそんな生きてないような錯覚が
あったり(笑)
正月らしい気分、雰囲気のない正月もかれこれ7年近くなってしまった。
もう、慣れっこに(苦笑)
年が明けて、暫く連絡を取ってない妹に連絡した。
元気そうな声に安心しつつ、昨今めっきり親戚付き合いをしてない叔母さんが俺のことを
心配して「頑張って!」って言ってた話を聞き、有難がったりもするけど至って元気だ(^^)
そんな叔母さんは孫の自慢話をして元気そうな話を聞いて安心しつつ
「叔母さんも年取ったなぁ」などと笑い話。
俺と妹の子供の頃の話から昔話になった。
マイホームが最初からある人達、子供らには家があると言う有難さなんて
分からないだろうなぁーみたいな話をして、嫁さんや娘らの話を引き合いにだした。
俺の親父は結構大手の会社でマジメに働いていたけど、さほど裕福でもなく俺と妹は社宅住まいだった。
俺の記憶にある最初の社宅は共同便所で風呂もないところだったって話に妹は記憶にないらしく
びっくりしながら聞いていた。
そんな俺の家も高度成長期の中、マイホームを購入することになり親父と物件を家族で見に出かけた。
ちょうど、俺が小学3年生の頃だった。
我が家となった家を見に出掛けたときのことは今でも覚えてる。
広島の農家の大家族で三男に生れた親父には財産もなく、兄弟達の学費も面倒みてやっていたせいか
さほど貯えも無く大した住居は候補には上がらなかった。
新興住宅都市の団地の様な戸建てが並ぶ住宅地をああでもないこうでもないと言いながら家族で
登りの立つ家を眺めては出て歩き周った。
どうやら予算が折り合う家がなさそうで親父的には希望の間取りの家がないような感じだった。
しかし、この街は通勤に比較的便利らしくこの街あたりで決めたい気持ちはあったようだ。
最後に見た家が唯一、親父の予算ぎりぎりで購入出来る家だったけど随分狭くって急な階段の家で
子供の俺の目から見ててもそれまで見た家と比較するとかなり貧相な家に思えた。
親父とオカンの形相と雰囲気が険悪になって行くのを見て子供ながらに辛かった。
住宅地にあるたばこ店の神戸屋パンのバターサンドを妹と食べながら親父に
「最後のおうちでエエやん!」って傍らに立つ親父に言った。
無骨でヘンコな親父はニコリともしなかったけど
『あそこでええか?』
「うん!」
とりあえず早く帰りたいのと早く険悪なムードから脱したいし親父とオカンに
決めて欲しかった俺は適当に返事した(苦笑)
帰りに立ち寄った駅前の喫茶店でまた、家族で何か食べに入ったが親父ひとり水を
飲んでた。
「お父ちゃん、要らんの?」
『要らん。』
当時のエピソードを妹に話しながら2人で笑った。
妹は全く覚えてないらしいが俺にとっては鮮明に残っている記憶。
ホントに武士は食わねど高楊枝ってのはこのことだと親父のことを思っていた。
実際、親父の楽しみって言ったら同僚たちと飲む酒くらいなもので博打もしないし
マイホームでそんなノリだったから車どころか免許も取らずじまいであの世に逝ってしまった。
そんな親父の反動か俺は自己快楽至上主義な気がする。(ハンセイ)
随分、親不孝して困らせた。
親不孝ばっかりやったので、孫を見せてやれたくらいが
俺の親孝行やったような気がするけど病気で長患いだったオヤジの最期を看取ってやれたことが
少しもの救いかも・・・とは逆にオカンは悪いことをしたのか運命だったのか。
一方的にオカンを怒ってた子供想いのヘンコなオヤジ。
ピントの外れてることばっか言って周囲を気分悪くさせたり
笑かしてくれた鬱陶しいオカン。
今はもう居ない。
オヤジ、オカン いつも妹と笑い話のネタにしてるけどThanks!!
親とか家族とか家って失って初めてありがたみが分かるもんだ。
閉じた瞼から不覚にも涙がこぼれた。
歳だね(苦笑)
また、正月らしい正月が俺に来るだろうか・・・
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